The Beatles

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1960年代(頃)

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カテゴリ:「The Beatles」の評価とレビュー



説明・内容など The Beatles」についての内容です。

ザ・ビートルズ (The Beatles) は、イギリス・リヴァプール出身のロックバンドである。
ビートルズは世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドである。ギネス・ワールド・レコーズでは最も成功したグループアーティストとされる。1985年で世界的にビートルズのCD、レコード総売り上げは10億枚以上。イギリスのリヴァプールで結成され、世界的な人気を博し1960年代を代表するスターとなると共に、現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年10月レコードデビュー。1970年4月解散。
外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年にエリザベス2世から(当時、ロックバンドとしては異例の)MBE勲章が授与された。
世界的アイドルとして成功を収める一方、彼らの作り出した音楽は1960年代以降のロック・ポップスシーンに多大な影響を与えることとなった。その楽曲の普遍性、革新性は現在に至るまで高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。
その解散後、イギリスで新たな人気アイドルが登場する度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4[1]と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。
ビートルズの音楽的ルーツは基本的に(チャック・ベリー、リトル・リチャード、シュレルズなど)米国黒人のリズム・アンド・ブルースやロックンロール、およびそれをルーツとした(エルヴィス・プレスリー、バディ・ホリーなど)白人のロックンロールと言われている。

[メンバー]
★ジョン・レノン(John Lennon)(1940年10月9日 - 1980年12月8日)(リズムギター) 

★ポール・マッカートニー(Sir Paul McCartney)(1942年6月18日 -)(ベース)

★ジョージ・ハリスン(George Harrison, MBE)(1943年2月24日 - 2001年11月29日)(リードギター)
 
★リンゴ・スター(Ringo Starr, MBE)(1940年7月7日 -)(ドラムス) 

[バンド名由来] 
「BEATLES」は、ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた名前で、造語である。自分達の敬愛するロックンローラーバディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(こおろぎ)にあやかって、同じ昆虫の名前ビートルズ(BEETLES、甲虫類の複数形)をマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』の中から思いつき、クリケッツ(こおろぎの他にスポーツのクリケットの意味がある)のように2つの意味になるようにと、BEETLESに音楽のBEATを加える意味でスペルを変えてBEATLESとした。
ジョン・レノン曰く「言葉だけを聞くとモゾモゾ動く虫をイメージするだろ?でも字を見るとビート・ミュージックというわけさ」
バンド名を「ビートルズ」とした頃、ギグを取り仕切っていた者にその名前を嫌われ「ギグに出たかったら『ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー』という名前に変えろ」と言われ、ギグに出る為にお互い譲り合うという形で、「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」しばらくしてロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていた時期がある。「ビートルズ」の前に「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていたのはこうした経緯からである。

[来歴]
・デビューまで

1957年3月、ジョン・レノン、バンド「クオリーメン」結成。

1957年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行われたクオリーメンのコンサートをポール・マッカートニーが観る。共通の友人の紹介によりジョン・レノンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を完璧に歌い、ジョンに誘われクオリーメンのメンバーになる。

1958年2月6日、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー」を完璧に弾きこなしバンドに加わる。

1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。

1959年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」とする。

1960年1 月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入(リヴァプール・カレッジ・オブ・アート時代のジョンの親友、もともと画家志望で音楽をやっていたわけではないが、絵が売れるとその金でベースを買ってバンドに入るようにジョンが誘いバンドに加入。その為そこからベースを覚えていったという、ベースの腕前は素人)。バンド名が「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。

1960年4月23、24日、ジョンとポールの2人は「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏する。

1960年5月、ソロシンガーのバックバンドをつとめるツアーに出る(この時、それぞれが芸名をつけていた。ジョン「ロング・ジョン」、ポール「ポール・ラモーン」、ジョージ「カール・ハリスン」、スチュアート「スチュアート・ド・スタール」)。

この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた、ドラマーのいないステージではポールがドラムスを叩いたこともあった。

1960年8 月、ドイツのハンブルクでの仕事が入り新たにドラマーが必要になり、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。バンド名を「ザ・ビートルズ」とする。ハンブルクではリンゴ・スターがドラムスを努める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」も出演していて、リンゴと付き合うようになる。

1961年4月〜7月、この2度目のハンブルクでの巡業の途中で、スチュアートが画家に専念するために脱退。

1961年6月22、23日、ハンブルクではトニー・シェリダンのバックバンドとしてもステージに上がっていたことが縁で、ドイツでシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(ビートルズのポリドール・セッション)。レコード会社は勝手に「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」とバンド名をビートルズからビート・ブラザーズにかえて発売。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのヴォーカルの「いい娘じゃないか」インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた。

1961年12月10日、ブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。

1962年1月1日、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格となる。

この頃、ピートがステージを休むことが数回あり、そんな時はリンゴが代役としてドラムスを叩いていた。

1962年4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去。

1962年6月、パーラフォン・レーベルとレコーディング契約を結ぶ。

1962年8月15日、ピート・ベストを解雇、リンゴ・スターがビートルズに加入。

1962年10月5日、レコードデビュー。

・デビュー当初から初期

ビートルズのデビューが決まり、曲を録音する段階で、ジョージ・マーティンは誰をメイン・ヴォーカリストにするか悩んだという。当時は特にリズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リード・ヴォーカリスト&バックコーラス、又は、リード・ヴォーカル・ウィズ・バックバンド」という形式が多かったためである。その他、スターを1名プッシュして売り出すという目的もあった。マーティンは当初はポールをリード・ヴォーカルとして押し出すつもりであったが、結局ジョンとポールの2人を押し出すことに決定した。デビュー曲は「ラヴ・ミー・ドゥ」でイギリスではそこそこのヒット曲だった。また、英国での2回目のシングルレコードのプリーズ・プリーズ・ミーのNo,1ヒットから英国ナンバー1のグループになる。また、英国でのデビュー・アルバムの『プリーズ・プリーズ・ミー』もイギリスで30週間ナンバー1の記録を達成している。この記録は未だに誰からも破られてはいない。そして、彼等のセカンド・アルバムの『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発表になり、このアルバムもまたイギリスで『プリーズ・プリーズ・ミー』に替わり22週間の間ナンバー1になり、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの1位を占領した。

一方ブライアン・エプスタインの営業努力にもかかわらず、「ラヴ・ミー・ドゥ」、「プリーズ・プリーズ・ミー」、「フロム・ミー・トゥ・ユー」及び「シー・ラヴズ・ユー」は、アメリカでは全くヒットしなかった (大手レーベルからの発売さえできなかった) 。しかし「抱きしめたい」がアメリカでナンバー1になり大成功して以降、上記4曲も加えてビルボードの上位を占める等、アメリカもビートルズ旋風一色となった。
1964年,アメリカで

それを含め大ヒット曲の連発で、ポピュラー音楽の歴史が彼等によって塗り替えられて行く事となる。また、「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でも世界のトップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。 また、ヴォーカルの方面では「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などの、ジョンとポール二人で歌っているうちの、「どちらがリード・ヴォーカルのメロディーなのかわからない曲」や、「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように「最初はジョンやポールがリード・ヴォーカルだが、いつの間にかハーモニーやバックコーラスに回り、リード・ヴォーカルが交代してしまうパターン」などの形態がある(これらは主に二人の声の高低をカヴァーしたことに起因する)。コンサートツアーの方はアメリカで成功したため、他の国での成功をも確信したことから、世界ツアーに行く事になる(当時はアメリカで大ヒットするだけでは不十分だった)。1964年のオーストラリア公演では、リンゴが扁桃腺炎の為、一時期リンゴの代役としてジミー・ニコルがドラマーとして参加する。またリンゴが復活し、オーストラリアのアデレード公演の際、ビートルズがアデレード市のタウン・ホールに出現した時は30万人のファンがタウン・ホールに詰め寄せたという。

[担当楽器]
ギター2本、ベースギター、ドラムス」が初期においての基本的な楽器編成であるが、中期から後期にかけては、リンゴ以外のメンバーの担当楽器は曲によって実に流動的である。

リードギターは基本的にジョージが担当しているが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。 ジョンのリード・ギターは「ゲット・バック」や、「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(間奏部)、「アイ・ウォント・ユー」などで聴くことができる。ポールは、「涙の乗車券」(フェイド・アウト・パート)、自作「バック・イン・ザ U.S.S.R.」、ジョージ作「タックスマン」(間奏部とラスト)などのリードギターを弾いており、「ブラックバード」などのアコースティック・ギターのナンバーと併せ演奏例が多い。 ちなみに「ジ・エンド」の間奏部分においてポール、ジョージ、ジョン順番でギターソロ・リレーを演奏している。

また、ジョンとポールはピアノなどの鍵盤楽器もしばしば演奏している。「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのイントロのメロトロンはポールの演奏である。主にピアノはポール、オルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器はジョンというパターンが多くみられる。

「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」など 中期から後期の作品で、ポールが主に自作曲でピアノを担当する時は、ジョンがベースを担当する曲も存在する。例えば「レット・イット・ビー」では、ジョンが6弦ベースを演奏している。

レコーディングは当初(基本的には)一発録りだったがレコーディング技術の発達により多重録音が可能になったのでアルバム「Help」おいてはポールがベースに加え、リードギターを担当。

ジョージはリードギタリストとしての存在意義に危機感を覚える。ジョージは自分の存在意義を確立するため、インド楽器・シタールを練習し、「ノルウェーの森」において使用。それがビートルズがインド音楽の影響を受ける端緒となったことは良く知られている。またジョージが演奏した他のインド楽器には、「ゲッティング・ベター」や、「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどがある。ただし、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとの決別に伴いインド音楽への傾注は急激になくなっていく。

モーグ・シンセサイザーは、アルバム『アビー・ロード』において、ジョージにより導入された。単音しか出せないが、現在の(アナログ)シンセサイザーの元祖でもある、当時の最新楽器である。「ヒア・カムズ・ザ・サン」や、「ビコーズ」で演奏され、ポールが「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。

他、1968年のリンゴの脱退騒動に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」、それとは別に「ジョンとヨーコのバラード」のドラムスはポールが演奏している。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。ジョンのサックスなど、珍しいパターンもある。

メンバー以外のポップス・ミュージシャンによる演奏としては、エリック・クラプトンが「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のリードギターを弾いているのが特に有名である。他にはレヴォリューションでのニッキー・ホプキンスのエレクトリックピアノ、ビリー・プレストンによるアルバム『レット・イット・ビー』中のエレクトリックピアノやハモンド・オルガンなどがある。 また、番外編的なものとしては、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏などで、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで演奏に参加している。ただしこうした外部ミュージシャンの参加はプレストンを除きクレジットされていない。

以上はメンバー間の不穏な空気を収めるため ジョージが外部ミュージシャンを誘い込んでいる(外部人間がいると一応、外面は仲良く見せようとするので)

[作詞作曲とリード・ヴォーカル]
ジョンとポールが主に作詞作曲を行なう。またジョージやリンゴも後期になるにつれ作詞作曲を行なうようになる。リードヴォーカルはジョンまたはポール、あるいは2人一緒にとることが多いが、自作曲を中心にジョージも、またリンゴもリード・ヴォーカルをとる。

多くのヒット曲をはじめ、オリジナル曲の8割以上の作詞作曲はジョンとポールの共作としてクレジットされている。かつては、クレジット通りに2人で共作した曲はそれ程多くはないと考えられてきたが、後年ジョン・レノンはインタビューでこれを否定していて、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」で多くの曲が共作であったと明言している。以前は、楽曲でリードボーカルをとっている方が作者であると断定されてきたが「例外も数多くある」とのポールの証言がある。また、二人の記憶には多くの相違点があるので、いくつかの作品は作者を特定することが困難であると思われる。

ビートルズ結成当初から、2人の友情の証として、どちらか一方がたとえ単独で作った曲でも、クレジットは「レノン=マッカートニー」、または「マッカートニー=レノン」(初期のレコードアルバムで見られる表記)と連名にする約束が2人の間で取り交わされていたからであろう。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。この約束をジョンは比較的律儀に守っており、1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に(原題:Give Peace a Chance)」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている。彼等の作品は全米、全英ともNo.1になった曲が最も多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。

レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、ジョージの作品が21曲、リンゴの作品が2曲、レノン=マッカートニーとリンゴとの共作が1曲、全員の共作1曲が含まれている。『ビートルズ・アンソロジー』のシリーズには、ジョンとジョージとの共作のパターンも存在する。





OFFICIAL SITE
http://www.beatles.com/

Japan Ver.
http://www.emimusic.jp/beatles/

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